ジュリエット 憎い敵はあなたの名前だけ、
モンタギューでなくてもあなたはあなた。
モンタギューってなに?手でもない足でもない
腕でも顔でもない、人の体の
どの部分でもない。ああ、何か別の名前にして!
名前に何があるの?バラと呼ばれる花を
別の名で呼んでも、甘い香りには変りはない。
ロミオだって同じ、たとえロミオと呼ばれなくても
非の打ちどころのない尊い姿はそのまま残る。
ロミオ、名前を捨てて。
あなたの体のどこでもないその名の代りに
私のすべてを受け取って。


「りんごは赤い」という文を見ると、この文の外に「りんご」とよばれる実体があり、その実体は「赤い」という性質を持つ、と一般には考えられるだろう。しかし、そのとき、文の外にある「りんご」なるものを想定する必要がほんとうにあるのだろうか?そして、われわれは何気なくこの文に触れたときに、実のところ、「りんご」に対応すると思われる、外にあるものを斟酌してはいないのではなかろうか?

たとえば、つぎの英語の文、"It rains (雨が降っている)" の "It" に対応するものが実在するであろうか?この場合、思い浮かぶものは何もないはずである。

文は主語と述語から構成されており、主語はそれに対応する、「現実」とよばれているよう思われる外の世界に実在するものを指し示しており、述語はそのものに属する性質を記述している、そしてこの性質をそのものの意味だ、と考えるのが世の常であろう。ところが、どうもそうとは考えられない例がある、とウィトゲンシュタイン (Ludwig Wittgenstein 1889-1951) は気づいた。

たとえば、主語をチェスの駒としてみよ。「ポーンは、通常、盤上を一マスだけ進むことができる」、「ポーンは前に駒がある場合前進することはできないが、しかし斜め前にある相手の駒を取って、その場所に移動することができる」などという文の述語は、よく見てみれば、「ポーン」という主語に対応するものの性質を記述している、とすることはためらわれる。これらの述語が少なくとも「ポーン」の動かし方を教えていることは明白であるからだ。ここで問題となっているのは「ポーン」の性質ではなくて機能である。また同様にこれに類似する考察がプラトン (Platon 427?-347? B.C.) のいくつかの記述から得ることできるのではなかろうか?医療器具や薬剤を主語とする文は、それらが患者にどのように作用するか、という内容のものでありうるし (この考察がプラトンにとっては弁証法とよばれる方法と深くかかわっていたよう私には思われる) 、そのとき、ここで問題となっているのは、やはり、機能である。これを理由として、これまで例示した文は主語となるものの使い方や使用した結果を教えるものとなるし、ここで主語となるものといっても、その主語が外世界に実在するあるものを指示しているとは考えがたくなる。これらの文は、ポーンがどのような素材から作られており、その色やかたちが何であるか、哲学の術語で言えば、ポーンに属する「質料」は何であるか、を考えることとかかわっていないので、「ポーン」という主語に対応する実体の具体的な特徴を描写していない。となると、この場合、その実体について「エーテル」のような超感性的な物質からなる実体を想定してでも無理に問うことをやめればよい、とウィトゲンシュタインは言う (そのとき彼は数を何かの実体の観念表象としてあくまでもみなす一部の数学者の思想、超感性的な真実在とその仮象は知覚によって判別しうる類似関係をけっして持たない、という、ゲーテ [Johann Wolfgang von Goethe 1749-1832] の著作において見ることができるようなその元型よりも厳格に理論化されたプラトニズムの根本的な規定に反する非常に素朴なプラトニズム、を批判している) 。 「語の意味はその使用である」という有名な彼の言語哲学の綱領の内容はここで見てとることができる。


チェスのことを考えてみるがよい。チェスは数学に似ているが、数学のように後光など射してはいないという良さをもっている。〔両者ともに同様の問と、同様の見解とをもたらす。「チェスのキングとは何か」、「数とは何か」、「チェスの規則はチェスのキングについてのものであり、木や象牙の駒についてのものではない」、「算術の規則は数についてのものであり、紙上の記号についてのものではない」。〕「チェスのキングとは何か」と問われ、奇妙なことに、その駒とは異なったものとしてエーテル様の実体を考えてしまう人がいる。「数 1 とは何か」についても同様に言える。われわれはその問に惑わされてしまうのである。なぜなら、「『スミス』の対応物があるという意味では『 1 』の対応物などない」という答が正しいものでありながら、なお、われわれは他の意味での対象を探すからである。これは、われわれが絶えず陥る数多くの罠の一つにほかならない。「数とは何か」という問における名詞「数」を聞くと、われわれはエーテル的な対象を考えたくなる。だが、この問に対してどのような答が与えられるというのだろうか。「定義を与えよ」と言ってみたところで、問題を一歩ずらしたにすぎず、何の役にも立たない。この問題が提出する困難から脱け出る一つの方法として、私は、語の意味について語らず、語の使用について語ることを提案したい。そこで、われわれが語の意味をそれが用いられる仕方であるとみなしているとしよう。「語の意味」という言葉を「語の使用」に等しいものとして用いることがとくに効果を発揮するのは、語の対応物について語ろうとする奇妙な哲学的状況に陥った場合に、それがなんらかの道をわれわれに示してくれる、という点にある。

(1)


「ポーンとは何か」と問われた結果、答えとなる命題の述語は主語「ポーン」の質料、すなわち色や素材などを記述し、主語「ポーン」に対応する実体を描写することはおおよそありえない。また、その質料 (素材)を述語とする文であっても、主語の性質を示すのか、あるいは機能を示すのか、を決定しがたくなることもありうる。ある文の主語が医療用器具であり、述語が軽量で丈夫な金属となるならば、この文はその器具の使い勝手を示すものとなりうるし、同様に、主語が薬剤であり、述語がその成分であっても、その薬剤が投与された患者に起こる作用を教えるものとなりうる。となると、この医療用器具は何か、また、この薬剤は何か、という問いに答える文が、何か実在するものを指示しているのか、あるいは機能を教えているのか、条件次第であって、どちらかに確定する不動無謬の基準は存在しないし、同様の結論を下すことができる文例は非常に多いだろう、と想定することもいまや容易である。

あるものを「何か」と問うた結果、得られる答えとされる文が、その実体を指示するのか、あるいはその機能を教えるものなのか、どちらになるのかは条件による、という考察をわれわれは得た。ところが、少し見方を変えれば、指示を行う文でさえも後者に類似したものとしてみなしうる、という考えを抱いた哲学者がいる。それはどのような方法によって可能なのかを説明する記述が、ウィトゲンシュタインが誕生する以前からよく知られた哲学書、ヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770-1831) の『精神現象学』に存在する。


これまで語ってきたことを例を示して説明すると、「神は存在である」という命題においては述語は「存在 [存在するもの] das Sein」である、というようになる。述語が実体を意味しており、その述語という実体のなかに主語が溶け込んでしまっている。ここにあるのは述語ではなくて本質 [営為] であるはずだ。そのため「神」は、存在することとなると見積もられる、命題のなかの位置上にあるもの、つまり動くことのない主語、であることをやめたように見える。── 思惟は主語から述語への移行を追って進み行くかわりに、主語が見失われてしまったので、むしろじゃまされたように、そして主語が行方知れずになったという理由から、引き返して主語について考えさせられるようになった、と感じる。あるいは、存在するものとしての、主語の本性を使い果たす営為 [本質] としての、一個の基体 [主語] だ、と述語それ自体が言い表されているのだから、主語が述語のうちにそのままあることに思惟は気づく。となると、主語を追う思惟は、述語のところにいながら、形式論理学の論証にかなう、自由な [偶然的な] 位置づけを受け取るかわりに、命題の内容のうちにさらに沈み込むか、あるいは少なくとも、その内容のうちに沈み込む心積もりでいよ、という要請をみぢかに感じる。── たとえ「現実的なものは一般的なものである das Wirkliche ist das Allgemeine 」ということが言われるにせよ、やはり主語として働く「現実的なもの」は述語のうちに消え去る。「一般的なもの」は述語の意義を担い、その結果、この命題は「現実的なものは一般的であれ [であるとせよ] das Wirkliche sei allgemeine 」と述べるにとどまらず、そのうえ「一般的なもの」は「現実的なもの」の本質 [営為] と表現しているはずである。── 思惟は、それゆえに、主語に重ねていた対象物という不動の地盤を失い、また同様に、行き着いた述語のところで主語の方へと引き返すことになるし、となると、思惟は、元のとおりに主語に対象物を重ねていたときにもどるのではなくて、内容のうちにある主語に投げ返されるのである。

(2)


記述はやや難解であるが、しかし、主語が述語のなかに溶け込む、と考えれば、主語に対応するものとして外世界に実在するものを想定する、言い換えれば、主語が指し示しているものであるように一般的には思われている「対象」を思考する必要はない、という文を扱うにあたっての方法の提示を見てとることは難しくないだろう。この記述は『精神現象学』ののちに本格的に展開された彼の論理学の主要な部分となる判断の一種を説明している。主語が述語のなかに溶け込むという箇所が暗黙のうちに斟酌しているのは、実のところ、アリストテレス (Aristotélēs 384-322 B.C.) の形而上学における生成過程である。命題のなかにある主語は述語のなかに溶け込むが、しかし、その主語は消え去ったのではなく、言い換えれば、存在することをやめたのではなく、述語のなかにある、とヘーゲルは言う。命題を主語がいかにしてはたらいているのかを描く、言い換えれば、主語となる語の作用の過程を示すものとして見てとれ、という指示がそこにあることをわれわれは知るべきなのだ。そのことばの説明となりうる記述がアリストテレスの『形而上学』にあり、それは、事物は変化するがゆえに存在しない、というヘラクレイトスら (Hērakleitos 540?-480? B.C.) の主張にアリストテレスが応えた箇所である。


なるほどかれらが、転化する物事は、転化しているかぎり、存在していないと考えるには、理由がある、しかしこれにも反論の余地がある、と我々は答えよう。というのは、消失しつつあるものもなお消失するもののなにかを保っており、生成しつつあるものもすでにそのなにかは存在しているにちがいないからである。すなわち一般に、なにものかが消滅するならば、そのなにものかは存在していなくてはならず、なにものかが生成するならば、このものがそれから生成するところのそれ〔質料〕や、それによってその生成過程が始められるところのそれ〔始動因〕が、存在すること必然であり、しかもこの生成過程は無限にはさかのぼりえないからである。

(3)


われわれ自身もわれわれの周囲のすべての物事も変化の過程にあることは疑いなく、すべては不動の確固とした形態を備えたものとはいえず、消失していく、と言うことができるし、すべては存在しない、ということは道理であるよう思われる。ところが、なにか存在したものがなければ変化は始まらない、どこかに生成過程の起点となるものがあったはずである、とアリストテレスは考える 。それではやはり素朴な意味合いで実在するものがあるのだろうか?生成過程は無限に遡行できない、生成過程であるかぎりその起点は存在する、としても、その起点がアリストテレスにおいて外世界に実在するものを率直に意味しているのかどうか、という問いやそれに直接にかかわる疑問は措くとして、彼の影響下にあるヘーゲルは、実際、対象という観念をしりぞけている以上、『形而上学』は彼にとって素朴な実在論を正当化するものであるはずがない。

素朴な実在論でなくとも実体のようなものを定める方法はある。以下は私の推理から導き出したひとつの例であり、ヘーゲルが実際に考えていたこととは異なっていることはありえる、しかし対象という概念を棄却するのであれば、なにか存在するものを想定する際に、素朴な実在論に回帰する必要はない、ということだけでも知られればよい。生成過程の起点となるもの、すなわち生成過程を構成する因子 (エレメント) 、質料や始動因などの存在の仕方は、全体としてはほとんど異なるにせよ、非常に基礎的な部分では、構造主義における辞項や家族の存在の仕方に類似しているとせよ。その基礎的な部分にあたるのは、実体ではなく関係が先行しており、関係の働きによって構成されるものを実体ならぬ実体として定めることである。たとえば、ひとつの家族が存在するためには、父となる男性を提供する家族と母となる女性を提供する家族というふたつの家族の関係が先立つ、と構造主義者は考えるし、また同様に、先行する関係性からその存在が導かれる辞項は「虚定的」に定まる、とソシュール (Ferdinand de Saussure 1857-1913) は考えていたし、そして実体が先行していることを事実として無思慮に了解し、言葉をそれを指示する名札や、その性質を述べるものとして前提する言語学をしりぞけた。構造主義のなかでも文化人類学の場合、関係は代数構造として扱われるが、他方、ヘーゲルの場合、関係を認識するための理論的な枠が生成過程であり、生成過程特有の関係のなかで因子の存在は定まっているよう思われる。構造主義を意識したものではないものの、関数として因果性を考慮する方法をヘーゲルの哲学のなかに見てとる研究があり (4) 、それを関係一般に応用すれば、ある程度説得力のある議論を展開させることができるかもしれないが、しかし、ここでは、本題であるヘーゲル独自の文の見方についての説明にはさほど影響を及ぼさないことであるので、構造主義に類似する方法で、先行する関係からヘーゲルは存在するものを見てとった、と仮定するにとどめる。事実として、生成過程として見てとられた文 (命題) は他者との関係を含むものだ、とヘーゲルは述べている。ヘーゲルが構造主義の基礎となる代数学の理論を彼の哲学に導入していないことは事実であるが、しかしヘーゲルの哲学と構造主義とを接合したとしても、相容れない箇所は生じないよう私には思われるし、実際に、その接合あるいは共存はラカン (Jacques-Marie-Émile Lacan 1901-1981) の精神分析理論においてなされている。

ヘーゲルにとって文 (命題) はひとつの生成過程そのものであり、となると、そこで主語は生成過程を構成する因子、すなわち始動因や質料などの役割をはたしている。ここではアリストテレスの生成過程の詳細を述べることはせず、以降は簡潔な説明で済ますこととする。生成過程の表現に主に用いられる術語として質料と形相があり、それらを説明するものとして、よく知られている例は、脚は質料であり、歩行は形相である、というものである。質料 (ヒュレー ὕλη) という語には薪の意味があるから、これを燃料として考え、主語が述語のなかに溶け込むことという表現をふたたび見ると (灯油が暖房器具を介して部屋を暖めることなど想像してみよ) 、先の命題において主語は質料という因子として働いているように見えるようになるだろう。しかしながら、生成過程として見てとられた命題では主語はいつでも質料として現れる、という結論は一面的なものであるかもしれない。生成過程を構成する因子は質料を除いて他にもあるから、主語が質料のはたらきを担うことはありえるにせよ、必ずしもそうではなく、質料以外の因子としてはたらくことも、あるいはいくつかの因子の役割を兼ねる場合もある、とまで想定した方がいまのところ賢明である。

文 (命題) が生成過程として見てとられると、同時に生成過程特有の関係の認識もなされ、主語は関係のなかで存在する因子となる。これを理由として、主語のはたらきを表現する述語が、先の引用文のなかで、実体 Substanz とよばれることとなる。ヘーゲルの哲学においては、文は生成過程として、そして主語と述語はその過程、関係の総体、を構成する因子として識別されてはじめて実在するものとなる。忘れられがちな事実であるものの、現実には完全にかたちを変えることない実在はありえない。同様に文の場合でも主語は変化のなかにあるものと識別されてはじめて実在の資格を得ることになる 。

文のなかの主語を追う思惟が進むべき道筋は、主語が述語として言い表されているそのはたらきのなかで溶けてしまった、たとえば、質料が形相へと変化 (変態) してしまった、と見たのちに、もう一度主語へ返ることだ、とヘーゲルは言わんとしている (この箇所は主語が述語に否定されることとして説明されがちであるものの、そのとき「否定」という語に変化が含意されていることを留意しなければならない、否定が変化であり、生成過程を斟酌するものだからこそ、否定された主語も生成過程特有の関係性のなかに存在し続けることになるのである) 。そうすれば、主語はものに与えられた名前の役割をもはや担うことはなく、新たな姿を現すこととなり、その姿は、繰り返すことになるけれども、主語がそのはたらきを示すときにあきらかになる他者との関係のなかに存在するものとしてである。文を生成過程として見てとれば、そのなかに蠢く他者の姿を明確に識別できるようになる。「灯油は暖房器具に使われると周囲の温度を上げる」と言われるときには、灯油と暖房器具、周囲の空気との関係があきらかとなっており、その関係は、同時に、この文が発語されたり記述されたりする際の脈絡として示されている。文が使用される脈絡は通常考えられているとおりに文の外部にあるのではなく、なかにあり、それは反省を経て現れることになる。

自らのなかにと帰還することによって、言い換えれば、自己を反省することによって、主語は生成過程のなかでそれ自身と関係する他者とともに存在 (実在) Existenz の資格を得る経緯を、主語を追い、ともに反省 (帰還) を経た思惟も経験する。


自らのなかに引き返した [自らを反省する] 個体 [個別] として判断された個別 [個体] は、それ自身と同時に他者と関係する主語と対にされた状態にある述語をもつ。── 自らのなかに引き返して、実在することになると、主語は性質を無媒介に伴うものではもはやなくて、他者と、外世界と、内的な関係をとり結び、ともに脈絡 [意味的連関] を成す。主語が他者と脈絡を成すことによって、一般性である述語は主語と他者とがとり結ぶ相互関係をその意味として含む。 (たとえば、「役に立つ」、「危ない」、「重さ」、「酸」 ── 「衝動」など。)

補足 反省的判断が質的判断と区別される理由は概して以下のとおりであり、反省的判断にかけられた命題では、述語が主語に無媒介に伴う抽象的な性質ではもはやなくて、他のものと関係づけられたものとして主語がそれ自身を証している状態のようなものとなっていることによる。たとえば「このバラは赤い」と言われる場合、主語は他のものとの関係性を欠いた無媒介な個別性としてまさしくみなされている。他方、「この植物には薬効がある」という判断がくだされたならば、「植物」という主語は「薬効」という述語によって他のもの (薬効のおかげで治癒することになる病気) と関係づけられた状態にあるものとしてみなされる。以下の判断も同様である。「このからだは柔軟である」、「この道具は役に立つ」、「この刑罰にはみせしめの効果がある」など。こういった判断のなかでの述語は概して反省規定をなすものであり、この反省規定をとおして見ると、主語は無媒介な個別性を超え出ていくことになるが、しかしその主語の概念があきらかとなるところにさえ、まだ、行き着いていない。── とりわけこのような判断の仕方で日常的な合理的判断がくだされることが常である。反省的判断が扱う対象がより具体的になればなるほど、より多くの観点からなされる反省がその対象から得られることになるものの、その多面的反省をもってしても、対象は消耗し尽くして、その固有の本性、すなわち概念、という極点に達することにはならない。

(5)


この引用は『エンチクロペディー 第一巻』、いわゆる『小論理学』の一部であり、そこにおいてはヘーゲル哲学独自の術語がいくつか現れているので、理解を妨げる障壁とならないように、これらの術語に説明を与えながら、以降記述をすすめることにする。

ヘーゲルの論理学は有、本質、そして概念という三つのカテゴリーを進み行くものと言われている。われわれがこれまで扱ってきたものは、実のところ、本質というカテゴリーである。本質の前にある有のカテゴリーでは、文 (命題) の主語には対象があるように思われており、その述語は主語が指示するもの、対象、の性質を示していて、われわれにはなじみの言語観に即した姿を文は現す。こうした文の扱い方が質的判断と、そして質的判断を行い、命題のなかの述語に示された性質が主語にふさわしいかどうか、と考え真偽を判定する論理学は形式論理学 (論証論理学) とよばれる。形式論理学はアリストテレスの論理学に由来するものであり、となると、現代の論理学も、そこからはみだすものを含むものの、その大半は形式論理学に分類されるだろうし (6) 、カント (Immanuel Kant 1724-1804) の分析命題もまた同じ理由から質的判断の産物としてみなされることになるだろう (あらゆる命題に本質を見てとれる、と考えるヘーゲルの観点から見ると純粋な分析命題はありないことになるし、となると、同種の結論に達したクワイン [Willard van Orman Quine 1908-2000] の脈絡からヘーゲルの論理学とを比較することも可能であろう) 。有のカテゴリーにおいては文は現象として扱われており、その理由はヘーゲルがそこで古代懐疑主義を参考にしていたからである。本質のカテゴリーでは文は生成過程として見てとられ (本質はそもそも生成過程の基底を指す語である) 、そして、そのように文を扱う反省的判断はアリストテレスの『形而上学』を基礎にしたものである。反省的判断の観点から見ると、有のカテゴリーにおいてはある何かを対象とする名前であったはずの主語は自らのはたらきを述語のなかで示すので、主語は名前の役割をはたさなくなっていく、そのとき、名前としての主語は溶け崩れていく。ただし有のカテゴリーにおいては主語は名前であるからこそ命題は解消しがたい対立をそのうちに孕むことになるのであり、その対立が有から本質への移行の契機となりうることをここで留意しておかなければならない。概念のカテゴリーでは文の把握を行うものは概念的判断とよばれ、その判断において問題となっているのは「良い」や「美しい」など超感性的なものにかかわる事柄である (また、推論、いわゆるアリストテレスの三段論法、も概念にかかわるものであり、厳密に言えば、概念的判断によって見えてくる文のなかにある関係は三段論法における諸命題間の関係である、とヘーゲルは述べているが、しかし、これは純粋な形式論理学の脈絡だけから見ては当然ならぬものであろうし、たとえば、『ニコマコス倫理学』や『弁論術』における、分析から離れたその用法を参考にすべきであるよう思われる) 。

概念を具現化するもののうち最良の例のひとつは、ヘーゲルにとっては、ルソー (Jean-Jacques Rousseau 1712-1778) の『社会契約論』に現れる一般意志である (ヘーゲルの著作が翻訳される際、 allgemeine にかかわる語は「普遍的」と訳出されることがあるが、しかし、これを「一般的」と私がするのは、その語が一般意志を斟酌しているからである。なお一般性には微妙なニュアンスのちがいがカテゴリーごとにあり、質的判断において述語が示しているように見える、複数の事物が共有する性質を「抽象的な一般性」と、概念のカテゴリーに達した段階では「真の一般性」と形容詞を加えることによってそのニュアンスを表現していることがあり、その後者がヘーゲルにとってはルソーの一般意志にふさわしいものである) 。ひとつの国の一般意志はすべての国民、すべての個別意志、にとってその望みにかなうもの、「真」とみなされるものではなくて、彼らが意識していないにせよ彼ら全員の利益となる事柄をもたらすものであればよい。一般意志は国民が、彼らひとりひとりが意識する欲望にかなうかどうか、と問うことによってその真偽を分析しても意味のないことば、ヘーゲルのことばにすれば、質的判断ではその真価をはかることができないことばであり、そのことばは国民全員の救済に結果するのであるから神の意志に劣らず必然的にして、従わなければならない指令として具体化する。 (7) 一般意志は、オースティン (John Langshaw Austin 1911-1960) の言語行為論のことばで語ると、個々の観点から真偽が問われる事実確認的 (constative) な言明として扱われてもその本性をあきらかにすることなく、「この先は行きどまり」と記してある路傍の看板のように見る者、聞く者にまっすぐに向かい、はたらきかける行為遂行的 (performative) な発語として考慮されることによってその真の姿を現す、と言うことができるだろう。しかしながら、一般意志の場合、これが、神の意志と化したことばであるのだから、必然性を示すこともまた斟酌しなければならないが。

有、本質、そして概念という三つのカテゴリーは進展を構成する諸段階であるものの、その総体が不動ではなく動くひとつの過程であるから、おたがいを区別する境界は不分明であり、また質的判断、反省的判断、そして概念的判断の三つの立場から見ると異なる相貌を示す文がありうることからして、これらのカテゴリーは相互に浸透していると考慮すべきだろう (たとえば有は量というカテゴリーを含み、量は比率という関係を示すために必要であるがゆえに、有からはみでているように見える) 。

いま、われわれが主として考慮すべきは本質のカテゴリーにかかわる事柄である。本質において個別性はそれ自身を超えて特殊性へと向う。とはいうものの、生成過程においては変化の前段階も存在し続けるのであり、個別性が消滅するということにはならない。個別性である主語とは形式論理学の観点から見える主語であり、それが対応する外世界に実在するもの、対象、はあるものとまだ想定されている (形式論理学を特徴づける質的判断において現れる主語は無規定な特殊性とよばれることもある) 。対象の観念は生成過程として文を考慮することによって崩れ始めるが、しかし、完全に消え失せるわけではない。その消失は本質から概念のカテゴリーに至って成就する。対象が消失するのは、ことばが神、即ち宇宙、の必然性として自らを開示し、また神の救済へと、贈与の享受へと導く指令として機能するときと同時である (ことばはその発信者の意図を超えて神の意志するものとなり、ことばが含むすべての関係性は贈与として生じ、その贈与の関係性は有における時間とも本質における時間とも決定的に異なる神の時間、永遠、を伴い到来する) 。神の意志として顕現することばであるこの指令が直接はたらきかけるものとして国民や人類が生じることとなり、これらが類とよばれる。贈与関係において識別される他者は「神の意志に従え」ということばを含意していると言いえる指令にはたらきかけられている者である。概念のカテゴリーにかかわる事柄についてはこれ以上は詳しく述べないし、詳細を欠いた記述は概して難解に響くだろうから、概念について語ることはここで終える。

とにかく、生成過程として文を見ると、その主語がその対象をもつかどうか、よくわからなくなり、そのとき、主語は個別性を超え出て特殊性へと向かいつつある、とわれわれは言うことができる。そして、同時に、主語は生成過程特有の関係のなかではたらく因子として存在するから、関係に媒介されたものとしてみなされることになり (これが文を生成過程として考慮せず、静的なものとして扱う質的判断ならびに形式論理学上の主語と述語が無媒介なものとして形容される理由である) 、その関係そのものが文の意味となり、こうして文は主語と関係する他者を、外世界を、そのうちに含む。であるからこそ、文は、いかにして主語となる語が機能するか、を示す脈絡をそのうちに示すこととなる。先の引用のなかで「内的な関係」と訳出した語は Verhältnis であり、この語には先に有のカテゴリーについて触れたときにあがった比例の意味があるだけでなく、ひととひととの親密なあいだがら (内面的な関係) を意味することもある。そこで「内的な関係」と訳出した理由は、この語が文 (命題) の外ではなくなかにある関係を示したものであることだけでなくて、反省的判断より下位の質的判断において主語と述語との関係は外面的と言い表されていることを斟酌したうえで、それと異なる関係がこの語に示されていることを強調するためでもある。

ところで、文を生成過程として扱い、その本質に触れることや主語を含む関係性をそこに認識することは、われわれはことさらに意識することはないものの日常生活において実質行っている、とヘーゲルは言うのであって、これは、語の意味はその使用である、と言うとき、そのような言語についての認識は明確に意識されることはないが、しかし、ひとは知らずにそうしているのだ、とウィトゲンシュタインが考えていることに対応している。語の意味はその使用にあることが日常の言語活動であきらかになっているにもかかわらず、その事実を忘れて同時代の哲学者や論理学者は、ヘーゲルの論理学では「質的判断」とよばれる、主語に外在するものが対応しており、述語はその性質を示す、と前提する手法で言語を扱っていることをウィトゲンシュタインは批判した。事情は異なるものの、この批判にはドゥルーズ (Gilles Deleuze 1925-1995) もあてはまるだろう。

ドゥルーズによるヘーゲルに対しての苛烈な批判は哲学に関心をもつ人々には知られているであろうけれど、そのほとんどすべては誤読であるし、むしろ、ほとんど読まずに批判しているのではないか、という疑念を抱かせるおもむきがある。たとえば、ドゥルーズはヘーゲルの論理学において主語が述語によって否定されることを主語となる表象がそれに対応するものへと近似する過程としてみなしているよう思われる。この批判の背景として、ヘーゲルの論理学のなかで有のカテゴリーにあたる部分だけ彼は読んだのであろう、という事情を好意的に推察できるとしても、ヘーゲルの論理学を構成する三つのカテゴリーのうち、ひとつだけを読み、論理学の全体を悪罵を交えて非難したのは、彼が哲学を専門とする人間である以上、いかなる意味においても擁護してよい事柄ではない (ただし、「近似する」という観念を批判する際に彼が展開した理論には数学の位相から着想したよう思われる独創的なものもあり、その妥当性はともあれ、なかなか魅力的に私の眼にうつることは否定できない) 。しかしながら、日本でも少なからず見られるドゥルーズの追従者も、師の汚点であるにちがいないふるまいを模倣して、ヘーゲルの著作をまともに読むことないままに、ドゥルーズによる不当なヘーゲル批判を、そして、言うまでもなく、笑劇の光景を再生産し続けているのが実情であるが。

さておき、ドゥルーズは、有のカテゴリーに属する、ならびに質的判断にかかわる言葉の扱い方を批判しているのであり、主語の性質を問うことではなく、主語を含む文全体の機能に注目することを重要としているように思われ、その点ではヘーゲルやウィトゲンシュタインと変わらないものの、彼の批判に含まれる主張はより過激であり、それは質的判断が前提する「これは何か」という問いの除去を訴えるにひとしいものである。ドゥルーズの告発によると、「これは何か」という問いはその問いを発し、正しい解をもつ者が主導権を握る権力関係を随伴するものなのである。

この告発が非常に滑稽なものであることをわれわれは容易に見てとることができる。「これは何か」と問うたとしても、返ってくる答えは「これ」が指すものの性質を示すものとはかぎらないし、示していたとしても、別様に、ドゥルーズが望むかたちのものとして、たとえば「いかにして」という問いの答えとして読むことができるものでありうる (8) 。ドゥルーズもまた、日常的な言語活動において、たとえ「これは何か」という問いに答えるものであるとしても、実質、ことばが彼の望むようにはたらいることを忘れているのであり、その結果、彼は原理主義的偏狭さに陥ってしまっている。ヘーゲルやウィトゲンシュタインのように、日常的な言語活動において、実質、何が生じているのか、とまで懐疑する力がドゥルーズにあったとすれば、先述の権力関係なるものは非常に不安定な基礎のうえに立っているものと即座に見てとれるし、そのような不安定な基礎のうえに築かれたものを恒常的に機能しなければならないはずの権力関係として考慮してもよいのであろうか、と自らに問うて、ことばにかかわる権力関係云々は浅薄な推論だ、と自覚したはずであろう。ある意味では彼は有のカテゴリーにおいて文とともに生じる現象に依然として目を眩まされており、それゆえに言語についての思考を徹底できなかったのかもしれない。

何かが表象される、語がそれに対応する実体を言い表すものとなる、という事態を見ると忍耐できずに癇癪を起こすという悪癖がドゥルーズにはあり、その悪癖が発揮されるとなると、理知に慎重をもとめることを忘れて、表象化が、たとえば、文の作用の仕方は文それ自体に示されていることから人々を完全に切り離す大きな害をもたらす、というようなことをまともに論証せずに彼はまくしたてるのである。

ドゥルーズの愚行をまねることなく、文の本質は、日常、ことさら意識されることなく見てとられている、と留意しなければならない。文の本質、主語がはたらく様子とそのはたらきのなかでかかわる他者の姿、を識別することは、比喩を批判し嫌うヘーゲルの言語観 (9) にあえて逆らうこととなるけれど、森のなかで樹々のざわめきに耳を澄ますことと似ている。森はざわめいている。無数の葉が風に揺れ、枝はきしみ、重力に負けて地に落ちる葉や木の実などが音をひっきりなしにたてている。ところが、それらの音をわれわれが気にするのは、森に近づいたり、そのなかにもぐり込んだりしてからの少しのあいだだけであって、しばらくすると、森の樹々が強風によってあおられて、けたたましく鳴り響いているのではないかぎり、森のざわめきは意識の彼方へと遠のくのではなかろうか?風にふかれた森のように文はざわざわとざわめいている。そのざわめきを日常的に人々が注意を深めて意識する機会は少ないだろうが、しかし彼らはほんとうのところはいつでも耳にしているのだ。そう考えると、有のカテゴリーのうちにすでに本質のカテゴリーが、実質、存在していることが理解できるようになる。本質のカテゴリーは、実のところ、有、本質、そして概念の進展のまえに置かれているのである。その原本質とよぶことができるであろうカテゴリーは武市健人 (1901-1986) がよぶには「天上のロゴス」であり、判断を洗練させて反省的判断に到達しないかぎり、意識のなかで明確なかたちをとることはないが、しかし、実質、存在するのである。




(1) アリス・アンブローズ編 野矢茂樹訳 『ウィトゲンシュタインの講義』 講談社学術文庫 p. 130-131 Affiliate Link

(2) G. W. F. Hegel "Phänomenologie des Geistes" Meiner p. 46-47

(3) アリストテレス 出隆訳 『形而上学 (上) 』 岩波文庫 p. 141 (1010a20)

(4) ヘーゲルの因果性を関数の概念でもって描出する高山守の研究が応用できるかもしれない。たとえば彼の『ラッセルの因果論とヘーゲル』 (『理想 No. 679』 理想社) を参照せよ 。

(5) Hegel "Enzyklopädie der philosphischen Wissenschaften I Werke 8" Suhrkamp p. 325-326 ( § 174 )

(6) 現代の数理論理学は、ヘーゲルの時代の論理学と比較すると、長足の進歩を遂げつつあり、そのなかにはウィトゲンシュタインの「語の意味としての使用」という発想を基礎に据えたもの、証明論的意味論があるがゆえに、ヘーゲルの論理学の立場から見ると、少なくとも有のカテゴリーに限定されていないものとしてみなさなければならないだろう。

(7) このように言うと、一般意志はひとりの君主や少数の貴族による独裁を容認するものと思われることになるであろうが、しかし具体的な政治の脈絡においては一般意志が確定する仕組みには議会が必要であるから、少なくとも完全な独裁を正当化するものとして解釈することはできないだろう。

(8) ドゥルーズは群論の誕生という代数学における革新をカントの批判哲学を超える事件としてみなしている。この革新以降、数学では、問題の正解を導き出すことだけではなくて、問題が解けるかどうか、解けるとすればいかにしてか、が問われることとなった。

ジル・ドゥルーズ 財津理訳 『差異と反復』 河出書房新社 p. 275-276

(9) 比喩は、ヘーゲルの観点から見ると、何かを余分につけ足すことである。たとえば、思想を比喩で言い表すことは思想に思想に類似するものとされた事柄の記述の外延的意味をさらに加えることである、という見解として解釈されうることを彼は『哲学史講義』で述べている。この見解は、比喩は、フレーゲ (Friedrich Ludwig Gottlob Frege 1848-1925) のことばにすれば、意義の余計な追加を示唆しているよう思われる。また、比喩を意義にかかわるものとしてみなすという、ヘーゲルと同種の見解をもちながらも、まったく反対に、これを非常に好意的に扱った哲学者がヴィーコ (Giambattista Vico 1668-1744) であろう。

Hegel "Vorlrsungen über die Geschichte der Philosophie I Werle 18" Suhrkamp p. 108-109

* ヘーゲルの訳出はすべて筆者による。

* 冒頭に掲げた文は以下より引用した。
松岡和子訳 『シェイクスピア全集 (2) ロミオとジュリエット』 ちくま文庫

参考文献
國分功一郎 『ドゥルーズの哲学原理』 岩波現代全書
武市健人 『ヘーゲル論理学の体系』 こぶし文庫
Michael N. Forster "Hegel's Idea of a Phenomenology of Spirit" Chicago